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8年間の日本不在を経たいま、あらためて自分の国を再発見するような、奇妙な感覚を味わっている。

瑣末ながらおもしろいなと思うのは、子どもたちの小学校生活や課外活動、習い事のそここに表れる「カタ」のこと。

 

たとえば空手はわかりやすい。空手にはさまざまな流派・会派があるものの、一般的には「型」がある。そこではすべて定められた通りの動きを身につけることが期待される。
「構えて」「いち! に! さん!」
体育館にハリのある先生の声が響くなか、この姿勢、この角度、この高さ、このタイミングとすべての要素を忠実に習得する。そこには必ず1つの模範の形があって、全員がそこを目指して日々練習を積んでいく。

「カタ」があるのは空手だけではない。
子どもを放課後テニス・クラブに連れて行くと、やっぱりそこでもカタのようなものがあるのに気づかされる。ここでカタは、ラケットを振るときのフォームであり、ボールを待ち受ける構えのポーズでもある。
「構えて」「足はこのくらい開こう」「つま先はあっちへ向けて」「ラケットはこの方向へ持っていって」
初心者向けのレッスンで、早速フォームを習う息子。コーチが背中にぴったりついて、いっしょにラケットを握りながら、丁寧に「この動きだよ、覚えよう」と身体でもって教えてくれる。イギリスで同じような初心者向けのテニス・クラブに通った彼が、それほど細かくフォームについて教わる機会はほとんどなかった。

このことは水泳にも当てはまる。昨年イギリスの小学校で水泳大会があったとき、子どもたちの泳ぎのフォームが人それぞれに予期せぬレベルでバラバラ(というかメチャクチャ)だったのを鮮明に覚えている。「へえ〜」と思った。「これはちょっと面白な」
というのは私自身、日本の水泳教室に5年間も通っていたのだが、そこで泳ぎを習うたび「まずは正しいフォームを覚えて」と繰り返し教えられてきたから。私にとって泳ぎを習うということは、正しい泳法をマスターするのに近かった。でも、イギリスでは様子がちょっと違っていた。競技の場ではとにかく速く泳げばいい。そして普段の授業ではより長い距離を泳ぐといい。子どもたちのフォームへの介入・矯正は、ひととおり自分の力でそこそこ距離を泳げるようになってから。

 

Photo by chuttersnap on Unsplash

実はこの「カタ」を求める姿勢というか美意識というか、アティテュードは、日本の学校生活にも浸透しているように思う。たとえばこんな感じで;
「前へ習え」「なおれ」
「休め」「気をつけ」「回れ右」
「起立」「礼」「着席」
「行進の手の振りはもっと高く」
「そのお辞儀はもっと深く」
………

さらに観察していくと、たとえば国語の漢字には、止め・跳ね・払い、そしてすでに定められた書き順が存在し、その通りにパフォームできるかテストで細かくチェックされる(これはイギリスの小学校の国語の様子を思い出すと、驚愕にあたいする)。ここにも独特のフォームというか、カタがあるように思えてくる。

算数では、やはりあのドリル式が思い浮かぶ。小学校1年生、年齢にして6歳を過ぎた頃から、繰り返し取り組んでいく馴染みのドリル。あれにもやはりカタがある。見た目としては、1ページ10問なり20問なりのまとまったボリュームで、ずらずらっと計算式が並んでいる。これを繰り返し解いていく。たとえ以前に解いたこのある計算式も、何度でも根気よく取り組むことが推奨される。
このスタイルが逆にイギリスではユニークで(おそらくそのユニークさも手伝って)「公文式」が一部の層で流行しているのだが、向こうでわりに高度な教育を受けた親にしてみると、「どうして同じことをやらせてばかりいるのか?」「一度理解したことをなぜ繰り返し学ばなければならないのか?」など疑問の声もあがっている。私自身日本人というだけで、kumonについて彼らの素朴な疑問を投げかけられたこともある。その時はたしかこんなふうに答えたはずだ;
「うーん、それはたぶん計算スキルの基礎固め、そのスキルの定着を重視する手法だと思うんです。基礎も大事でしょう、基礎も」

そう、やっぱり基礎。日本の教育・学びの場面でこの「カタ」が広く見られるのは、おそらくひとつに基礎固めを重んじる価値観が社会に浸透しているからなんだろう。そしてこのアプローチ、つまり「型やフォーム、形式や様式にしたがって、ある模範に近づくことを目指す」手法は、国ができるかぎり多くの人口に一定の基礎的成果を達成してもらうための、かなり有効なアプローチだったのだろうと思えてくる。実際、日本の基礎学力が世界で非常に高いことは有名だ(たとえば、PISAとか)。
たしかにこういう時代になると、「計算は計算機(コンピュータ)でやればいい」という意見が出るのも理解できる。「だから計算なんてできなくてもいいじゃないか」と。けれどもそれにも程度がある。数字を扱うセンスがゼロではやっぱり話は変わってくる。たとえば自力で暗算ができるというのは、数という概念を感覚的に親しみながら体得するとか、数字を操るという行為の隠れた根幹をなすんじゃないかとつい疑ってしまう。
(FYI:「イギリスの大人たちの基礎計算力の低さが国全体の経済に年間200億ポンド以上のダメージを与えている」という調査結果

 

Photo by Javier Quesada on Unsplash

最近の日本でも「暗記型の学習から脱却し、自立・探求型の学習へ移行しよう」と叫ばれている。もちろんこれは理解できるし個人的に共感するが、あくまでもその上で。やっぱり基礎も大事である。家づくりのように基礎が固まっていなければ、いくらきれいな上物を乗せたところで意味がない。あちこちで水が漏れたり傾いたり、倒壊の恐れも出てきて、もはや入居することさえ困難になるかもしれない。いっぽうで、基礎固めに大半の時間やお金を使ってしまえば、実際に入居する上物がおざなりになってしまう。それでは暮らしの充足感や心地よさが感じられないかもしれない。
だからやっぱり基礎と応用、両方大事になってくる。ごくまれに基礎と応用を吹っ飛ばす天才も出てくるのかもしれないけれど、そっちのほうがよっぽど例外、普通の人にとってみれば基礎はなかなか侮れない。

 

…………まあ、そんな感じで子どもたちは日々、空手の型、テニスのフォーム、水泳の泳法、漢字のフォーメーションとその書き順、ドリル式計算、運動会のダンスの動き、お辞儀の作法などを学んでいる。いつの日か、もっと自身をのびのびと表現できるようになることを夢見ながら。

 

Photo by Gabor K. on Unsplash