というわけで、トピックは子育てにちがいないのですが。ここでキレイにまとめてもつまらないなと思うので、また別の視点から「どうやら子育てだけでもないのかも」ってことを少し書こうと思います。
第1回は子育てに正解はないことを書きました。たった1つの解がない。都合のいい万能薬はないという話です。だからもう正解探しをやめようと。あっちの本やこっちの記事、そっちの話に振り回されて、どうすればいいかわからないグルグルを抜け出そうと。そのために、まずはちょっと立ち止まって……くわしくは記事のほうにまとめてあります。
しかしこれ。なにも子育てにかぎったことじゃないんですよね。仕事だって、教育だって、とっくに「正解のない」時代へ突入している。たとえば仕事だったら、従来のキャリア観ーーーすなわち定年制の、終身雇用の、年功序列の、固定的なキャリアーーーから、あたらしいキャリア観ーーー定年のない、同時複数的な、成果主義の、流動的なキャリアーーーへすでにシフトがはじまっている。あの超保守的な教育界さえ、教えられた正答を効率よく暗記する学習スタイルから、答えのない問いを探求する学習のスタイルへ、舵が切られようとしています。こうした動きは、おそらくこれから数年で加速的にさかんになります。なんとなく変わってきたなと思ったら、あっという間にバタバタとカードが裏返っている可能性もじゅうぶんある。
そんな正解のない時代。自分の頭で考えて、自分の心で感じることが、ますます大事になるだろうと思います。なにをすべきか考えて行動するのもそうですし、なにをしたいと思うのか、みずから湧き出る願いや希望、そういうところも含めて全部、大きな意味を持ってくるーーーこれって、大人というより子どものほうが上手なのかもしれません。大人になると大事なことまでどんどん忘れてしまうので。
これからたぶん、自分なりに考えるのをやめてしまうと、ますます世界がわからなくなっていくんじゃないか。そんな気さえしてきます。というのは、あまりにいろんな情報が四六時中入ってくるので。こちらの意図とは関係なしに。勝手にドシドシやってくるーーー手のひらのスマートフォンから、街角のあらゆる場所から、まだ見たことのないデバイスからーーー。とにかく情報量が多いんです。あきらかに多すぎる。そしてしばしば、それらはたがいに矛盾を抱えてやってきます。彼らは平気で正反対の主張をする。巧みな語りで説得にかかってきます。嘘も言います。フェイクもあります。捏造や改ざんだってある。
だから結局それらを受け取るわれわれが、自分のふるいやモノサシを持たなければ、振り回されてしまいます。これはおかしいとか、おかしくないとか、意味合い自体が見出しにくいものになる。本当に信じていい情報なのかわからなくなってくる。自分は嘘を信じていないか、だれかに操られていないかと、疑わしく見えてくる。自分でふるいにかけるとか測量するとかしなければ、不満や不安は膨らみます。そうして膨らみつづけたものはいつかどこかで弾けてしまう。
なんだかきびしい書きかたですけど。現実はそういう面もやっぱりあると思います。そういうことが、すでに世界で起きている。そもそも人は、これほど否応なしに情報にさらされると不安になって当然なのかもしれません。だからこそデジタルデトックスだの、SNS疲れだの、内省論だの、孤独論だのが(手を替え品を替え)世界中で流行してきたわけですし。とくに近年、欧州の混乱のさなかにいると身につまされるものがあります。「ポスト真実時代が!」とか、「フェイクニュースが!」とか、「投票結果が!」とか、「思想の過激化が!」とか、「爆弾が!」とか、じっさいかなり深刻な事態を引き起こしてしまっている。飛躍したテクノロジーが人や社会のいろんな要素と複雑に絡み合っている。
というわけで、今回の連載です。記事の主な軸というのは子育てに置かれています。具体的なエピソードも子育てから見た話として展開される予定です。しかし同時に、また別の切り口からも読めるように意識して書いてみようと思っています。そこはちょっとチャレンジです。子育ての話にはちがいはないが、子育てだけでもないかもね、と。更新は2週に1度。
どうぞよろしくお願いします。
第1回『ロンドン子育て・浅見実花のちょっと立ち止まって vol.1 子育てはムズカシイけど、実はとびきり自由でもある」(2018/5/21)