ページを選択

Photo: Coral Ouellette

この数年で、育児と自分のありかたが、ものすごくラクになった。子どもをどう育てようとか、どこへどう導けばいいのとか思い悩むこともあったけど、いまはもう肩の荷感がほとんどない。

もちろん、子どもにかかる物理的・精神的な労力が、単純にとても減ったからだというのはある。彼らは毎日自分の足で小学校へ通い、週末は自転車で動き回れる年齢になっている。自分なりの意思もあり、それをまわりに伝えることも一応できる。

でも単にそれだけで、いま感じているストレス・レスな状態を説明することはできない。むしろ、こちら側の心のもちようというか、情報や刺激に対する反応のしかた、その癖や習慣がこの数年で変化していき、なにか別ものになったような感覚が残っている。

それで今日は、この変容について忘れないうちに記録しておこうと思った。

比べない、ジャッジしない

まず、ほかの子となにかを比べてジャッジすることがなくなった。

これはなかなか曲者で、よその子をみるとつい、「(あの子に比べて)うちの子は……」と余計な思いを抱いてしまうことがある。そんなつもりはないはずなのに、気づくともう心のどこかがその部分に触れている。そっちへは行きたくないのに、いつのまにか心の一部が移動して、こっちをじっと眺めている。冷静になれば、だれかと比べて一喜一憂することや、相対化すること自体、あまり意味のあることではないと、自分でもよくわかっている。意味がないならやめればいいのも、頭ではじゅうぶん理解している。それなのに、心の動きがなかなか言うことをきいてくれない。どこかでつい誰かと比べてしまうから、なかなか心が自由になれない。これはもう癖なのだと思う。癖なのだと思い込む。癖ならば、直すことができる。

私はそこで、目に見えない感情のしっぽみたいなものを追いかけ掴み、面と向かって問いただすというプロセスを愚直に繰り返した。心の動きに意識を向け、つい飛び出すその気持ち、つまりほかの子と比べてジャッジしてしまう気持ちをつかまえ、反論を開始する。これは正直めんどうなプロセスで、それなりの忍耐が必要だった。べつに感情と向き合わずとも、感情は感情だよね! とそのままスルーしていればいいのかもしれないが、もっとどっしりとした自由や安らぎをもとめるなら、ここの癖を直す必要があると感じていた。

話が抽象的になってきたので、具体的に書いてみたい。
仮に、自分の子どものすぐ横に、見るからに賢い別の子どもが座っていたとする。すると、例によって心のどこかが勝手にそわそわしはじめる。「わー、なんて賢いんだろう!」ここで終わればいいのだが、つい「それに比べてうちの子は……」「これではなあ……」などと思ってしまう。そこで気がつく。「あ、きたな」「またやっちゃった」 その瞬間に頭をもたげる残念感はいったんかわすことにする。そして理性を呼ぶ。数秒待って、冷静さを取り戻す。それからいよいよ反論を開始する。

たとえば、そもそも論から入ってみるーーーそもそも賢いことが、そんなにいいのか。賢ければ、それでいいのか。だいいちパッと見の賢さなんて、人間の数えきれない資質・特徴・性格・態度などの、ごく一部の要素にすぎない。それに、ひとくちに賢さといったところで、数学的とか、語学的とか、空間を把握する力だとか、あるいは人の気持ちわかるかだとか、そのタイプもいろいろある。さらにその、心惹かれた賢さだって、幼少期のある時点でたまたま表に現れた要素というだけかもしれず、その子にせよ、自分の子にせよ、この先どんな遺伝子が人生のどのタイミングで発現するかということは、まったくもって未知である(たとえばその子が偉大なジョッキーになる才能があったとしても、それは発現するかもしれないし、しないかもしれない)。未知について、対処的に悩んだところで仕方がない。それにもし、もしもだけれど、そういう遺伝子を子どもが元来もち合わせていないとしたら、それこそもうどうにもならない。ないものを嘆いてもなにも変わらず、始まらなず、むなしい時間が過ぎるだけだ。ならばむしろ、あるものに目を向けていったらいい。そのほうが建設的だし、前向きだ。さらにその子がもし、自分のもちものに興味があって、その力を伸ばしたいと欲しているなら、そこをサポートしてやることはできないか。その子の好きなこと、興味のあるものは何なのか…… たとえばこんなふうにしつこく考え、反論・疑問を繰り返すうち、自分の子どもをほかの子と比べることは、次第にやんでいった。

こうした考えや反応のしかたが、自分の日々の習慣や癖として定着してくると、あとはもう自然な流れで、(子どもだけでなく)自身についても同じことが適応されるようになっていった。つまり、自分自身をほかのだれかと見比べ、ああだこうだと心のどこかでうつむくことがなくなっていった。きっかけは自分の子ども、育児であったが、じつは自身のありかたもそれでずいぶんラクになった。

メジャーな基準・価値観から距離をおく

人と比べて一喜一憂するのをやめる。だれかの基準や価値観より、自身の基準や価値観が大事になってくる。そうなると、承認欲求も沸かなくなる。例えば、仕事で何か成果や進歩があったとする。そのことに自身が満足しているか、ハッピーだと感じるか、それがとても重要なので、もしほかに人に認められたらうれしいけれど、とくに認められなくても大丈夫で、そこまでこだわりや興味はない。

こうして”人の基準”にこだわらなくなってくると、 やがて”世の中で支配的な基準や価値観” にたいしても、こだわりが薄れていった。どういうことかというと、世の中で多くの人にあたり前とされている基準や価値観にはもう引っ張られなくていいや、と思うようになっていた。そういう社会的規範みたいなものは一見強固に見えたとしても、じっさいは移ろいやすく、歳月とともに変わっていく、相対的なものだ。

働きかた1つとっても、そうだと思う。いまではすっかり普及したリモートワークも、すくなくとも10年前の日本においてはメインストリームから外れていた。技術的にはできなくもなかったけれど、実験的な導入はほとんど見られなかった。それがあるとき思わぬ外圧、つまり新型コロナウィルスによるパンデミックに直面して初めて「なあんだ、けっこうできるもんだね、テレワーク」と、一斉にパタパタと切り替わる。残業にたいする態度も、手のひらを返すようだ。10数年前までは、大企業で残業するのは頑張れる人、やる気のある人、そんなふうに見なされた(さらに数10年前は「24時間戦えますか」というフレーズがもてはやされた社会)。それが現在、残業すると当人の管理力不足、あるいは上司や組織に問題があると、厳しい視線にさらされる。

そんなふうに10年単位、あるいは有事をきっかけに、世の中のメジャーな基準や価値観が一変してしまい、往々にして180度も振り切れるなら、そもそも”現在”の基準へ苦労してアジャストしなくていいんじゃないか。というか、そんなに移ろいやすいシステムに寄りかかっていたくないな、とますます思うようになっていた。自分のよりどころさえあれば、それでいいんじゃないかな、と。

どちらでもいい

世の中的にはどうだとか、前例はこうで普通とはこういうものだとか、あるいは、だれもあえて言及しない前提だとか、そういうのはもう、どちらでもいい。アゴタ・クリストフの短編ではないけれど、どちらでもいい。これは諦めではなく、絶望でもない。ある世界から撤退し、引きあげていく感覚。でも、遁世的なさみしさはない。なぜならそれは、どこか忘れられ風化した場所から、大事なものを取り戻していくような感覚、そんな能動的な感覚でもあるからだった。

最近は、ひとくちに “成功” と呼ばれるものを目指すことさえ、1つの価値観でしかないのかな、と感じるようになった。

世の中の基準が絶えず変化するなら、そこで期待される “成功” の中身もともに変わってくる。だから子どもを育てていても、10年後、20年後の成功がどういうものかはわからないし、考えてもしかたがない。たとえばある時代には、高級車を所有し、都市にマイホームを所有する既婚者は “成功” なのだとみなされた。けれどもいまの時代には、住まいや結婚、あるいは所有自体にもさまざまな選択肢や形態、可能性がふくまれるので、何がいいかは人によってすでに全然ちがっている。

子育てでも、「子どもが成功してほしい」「子どもにsuccessfulな人生を送ってほしい」とよく言われる。あるいは “成功” を目指すことが前提として語られることが山ほどある。でも正直、疑問に思う:でかでかと旗のように掲げられる人生の成功は、いったい何を意味するのだろう? そもそも人は成功しなくてはいけないの? 

ここまでくると捻くれているように聞こえるかもしれないが、それでもやっぱり疑問視せずにはいられない:べつに成功しなくても、本人が幸せならいいじゃない?

よく “成功” と言うけれど、その前提が、社会というのは競争社会で、競争に勝ち抜くことを”成功” と呼ぶケースはかなり多い。けれどもそういう旧来の前提を、あたり前に不変のものと捉えることこそ危ういように思われる。たとえば近年、「AIに取って替わられる職業」「大人になったらなくなる仕事」といった危機感が、子どもの世代に共有されたりしているが、ほんとうにAIや機械が発達した社会であれば、人びとの生活を支えるコストが想像しがたいレベルにまで下がってくるのは必定で、人間が食べていくために、わざわざ労働する必要じたいなくなっているかもしれない。そこではたとえば「仕事が機械に代替されて困る」とかではなく(代替されて大いにけっこう!)、「競争社会で勝ち抜こう」とかでもなく(人間どうしが生活をかけて競い合う意味は?)、人びとは単なる労働から劇的に解放されて、暇をもて余しているかもしれないのだ……

というのは、まあ、正確に予測することができないけれど、大事なことは、今どれが正解でどれが間違っているのかではなく、自分なりにしつこく考え、ある程度熟成させて、それでも現状納得できているかどうかに尽きると思う。

あとはもうひたすらに

というわけで、長い時間をかけてようやく、子どもや自分を人と比べたり、世の中の基準に無理してアジャストしたり、未知の将来を心配したりすることがなくなっていった。

いまの自分が子どもにしてやれるのは、彼らが自身の幸せを追うことを手助けすること、その邪魔をしないこと。そして親は親なりに、たとえ人にどう思われようと、自身にとっておもしろみのある人生にしていくことだけだ。