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先日、ある小さな写真展を観てきました。場所はロンドンのロイヤル・ブロンプトン病院。

あまりにこぢんまりした企画なので、一般的な知名度はおそらくほとんどなかったのでしょう。インターネットで検索しても大きなメディアに取り上げられた跡はなく、じっさい病院の案内台のおじさんに展示名を聞いてみても、「はて、何のことかねえ」と首をかしげられるーーーふつうに気のいいカラビアンのおじさんでしたが。
それでも、作家のウェブサイトに「展示はロイヤル・ブロンプトン病院で」と書いてあるので、まあどこかにあるはずだよね、とためしに中をうろうろすると、ぐるっと回ったカフェの壁に写真がずらり掛けられていたという。
いやあ、この何気なさ、しぜんな意外さがいいのかもしれないなあと思いつつ。というのも、病院という多くの人にはあまり気乗りのしない(ときには死がやってくる)場所で、院内の患者やスタッフ、お見舞いに来た人が集まる喫茶コーナーにちょっとした企画展があるのって、感じがいいじゃないですか。私もなぜだか隣に座った英国人の老夫婦とずいぶん長くおしゃべりしてしまいましたし。とりとめもない会話ですが、この写真がきっかけで、あんなことこんなこと。

作品の一部はここできれいに見れます(British Journal of Photography);
http://www.bjp-online.com/2018/01/creagh-holding-time/

 

そんなささやかな写真展 “Holding Time”。授乳する母親と時間がテーマになっているこれらのポートレートを、私はいいなと思いました。何がいいなと思ったのかはーーーーLisa Creaghさんの言葉を紹介しておきます(一部要約)。

母親の授乳という行為には、とてもスローで、深く、たっぷりした別の時間が流れています。
母親の仕事とは、経済活動を基盤とした通常のシステムからーーー私たちがすでに規定された方法で時間を測ったり表したりしてきた場所からーーー外れたところにある仕事です。

(この写真の表現がルネッサンスの時代を思わせることについて)
ルネッサンス以前の多くのヨーロッパの教会では、キリストに授乳する聖母の絵画が飾られていましたが、しだいにその性的な側面が社会から不適切だとみなされるようになりました。以降、教会の聖母の絵画は授乳なしの表現によって取って代わられるようになりました。これらのことは、現代の社会でも母親が公共の場で授乳することにプレッシャーを感じているのと関連しています。

この母親という仕事、とりわけ授乳という行為は、時間の節約に追いかけられる現代社会の中で、時間について何か別の考えかたを求めているように思います。
現代では、医学や心理的発達の観点から、また環境や社会的な観点などから、母乳の利点が明らかになっていますが、それでも経済活動中心の時間的節約という意味において、哺乳瓶が好まれているという議論も残っているのです。

個人的には、母乳による授乳でも、哺乳瓶(ボトル)による授乳でも、最終的にその人の選択しだい(事情しだい)と思うのですが、彼女の主張もたしかに理解できるというか、なるほどなって思いました。最近いろんな分野において、効率至上主義みたいなものが幅を効かせているようだしーーーどうやって効率的にベストに生きるかだなんて、すべてを都合よく支配できないと思うけど。そっちをとことん追いかけるなら、どこかの時点で脳をプラグインして思い通りに生きる夢を見続ければいいわけで。
「ではお客さま、カプセルにお入りください。ここに入ればすべて思い通りに生きることができますよ。しかし入ったら戻れません。さあ、どうぞ」

 

ああ、懐かしいな、授乳の時間。作品リンクの一番下の写真みたいに私も双子をタンデムで、長いこと。もうやりたいとは思わないし、だれかに勧めることなんてできないけど。自分にとって特別な時間ーーーそれは彼女の言う通り、どこまでもスローで眠たくて、濃厚な別世界の時間だったということは多分にあると思うから。

「思い通りにならないことこそ、おもしろいことだと思う」
それが子育ての本質なのだと、河合隼雄さんもおっしゃっていました。そしてそう思うにもなかなか難しい時代ではあるけどねって。