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「ああ、カズオ・イシグロがいる……」

先週の日曜日。私のすぐ目の前、ほんの4〜5メートル先にカズオ・イシグロが現れました。
おそらくは奥さんをともなって、ロイヤル・フェスティバル・ホールの作家専用入口で、熱心な中年の男性ファンにさらさらとサインをしながら数秒間立ち止まっている。

私はちょうどイシグロとオンダーチェのトークイベント「Kazuo Ishiguro & Michael Ondaatje」(ブッカー賞50周年関連企画)を聴きに、「ロイヤル・フェスティバル・ホール」へやって来たところでした。
ホール入り口に続く階段を登りながら、ふとーーーなかば動物的勘のもとーーー足を止め、階段の下をひょいと見ると、そこにイシグロさんが佇んでいたという。
私はそこで数秒間、気配を消して思わず見入ってしまいました。

ところでこの「ロイヤル・フェスティバル・ホール」、およそ3千人を収容するかなり大きなホールなのですが、そのホールがさらに巨大な芸術複合施設「サウスバンク・センター」の一部にすぎないことは指摘しておいていいのかもしれません。

「サンスバンク・センター」は欧州でも最大規模の芸術複合施設(エリア)で、その一部である今回のホールや国立劇場、ギャラリーでは展示会、コンサート、演劇、ダンス、トークなど年間5000を超える芸術関連イベントが開催されています。昨年の来場者数は年間300万人を超えーーー東京の新国立劇場の来場者数が「17年の累計」で300万人(’97年〜’14年)ーーーロンドンの主要観光地と呼べる域に達している。立地もこの上なくわかりやすく、ウォータールー・ブリッジを挟むようにテムズ川の畔をダンダンダーンと陣取っている。

だからもうサウスバンクにやってくると、総合芸術の見えない意志みたいなものがコンクリートの各建物に鎮座しているかのようで。ロンドンあるいはイギリスの、有形・無形のさまざまな形をとった芸術にたいする敬意の重み、懐の深さを感じずにはいられないわけですが、さらに驚かされるのは、それでいてここの敷居がとても低いということです。この場所は人びとに「高尚さ」みたいなものを突きつけない。上から目線で市民を圧倒することがない。それはたぶん、ここがだれにでも開かれた場所であること(e.g. 有料イベント以外は自由に徘徊できる、川沿いの巨大オープンスペースに飲食店が並ぶ、多国籍な屋台や市場が立つ)、またさまざまな人びとを包み込む寛容さを備えていること(e.g. スケボーで移動する刺青のお兄さん、堂々とデート中のゲイカップル、噴水でキャーキャーと遊ぶ幼児、障がい者に配慮したイベントのプログラム)、そして構えないことの大切さを知っていること(e.g. 服装にうるさくない、ジーンズでも観劇する、全体的に過剰なサービスや何かを犠牲にしたもてなしがない)あたりが関係しているのだろう、と。

現代の日本人には想像しにくいかもしれませんが、ちょうど私たちが一杯飲みに行くように、あるいはカフェに立ち寄るように、ここでは大勢の人たちがとても気軽に、カジュアルに芸術施設に足を運んでいます。「さあ、今日は芸術を鑑賞しましょう」みたいなフォーマル感、ちゃんとしなきゃいけない感、妙な構えはまずないんじゃないでしょうか。それよりむしろ「なんか面白いことない?」とか「まあ行ってみようか、ちょうどそこは空いてるし」とか、たぶんそういう温度感。もちろん、前々からすごく楽しみにしている、半年前から予約を取ってうきうきしてる、なんてことも多々あると思うのですが、われわれの想像以上に芸術的な存在がずっと身近に、日常の暮らしの中に編み込まれている印象ですーーーただ、考えたら、そもそも劇場という場所は古代ローマ帝国の頃から都市機能の1つとして欠かせない存在であったわけで、それよりずっと以前にも、人は世界のあちこちで何かをパフォームしてきたことを思うと(e.g. 歌、詩、踊り、語り、祈り)、やはり芸術は人間の暮らしや世の中と密接に結びついているはずなんですよね。

そんなわけで、カズオ・イシグロとマイケル・オンダーチェの公開トークイベントです。
じっさい生身のイシグロさんは、メディアで見かけるイシグロさんとまったく同じに見えましたーーーよく(有名人を)生で見るのとテレビで見るのはけっこうな違いだよ、なんて言われますけど、ここまでソックリなのかが軽くショックなくらい、まったくもってカズオ・イシグロ。

長年の友人であるイシグロ氏とオンダーチェ氏は、まるでフラッと立ち寄ったんじゃないかと思うほどに落ち着いて、くつろいで見えました。耳の不自由な人のために会話のスクリプトがほぼ同時に(正確には3、4秒遅れで)スクリーンに現れるので、外国人の私にとってもそれはとてもありがたくーーー障がいを持つ人にやさしいイベントは、ほかの多くの人にもやさしいイベントであることを痛感しながらーーー心に残ったイシグロさんの言葉をメモとして残したので、それを記録しておきます。

トークは(おそらく敢えて)あまりストラクチャーされていない構成で、オンダーチェさんの好きなコラージュからスタートしました。

オンダーチェ:
コラージュが好きなんだ。コラージュが何かっていうのはよく知らないんだけど。いろんなものを、対立するアイディアも含めてすべて混ぜ合わせる。そういうことがコラージュではできるからね。1つの本みたいに。そういうアートのフォームが好きだよ。

それからふたりの幼少期の白黒写真(カワイイ!)やイシグロさんの楽譜なんかも登場し、会場をどっと沸かせてました。ふたりの類似点として、幼少期をアジアで過ごし(日本、スリランカ)、のちイングランドへ渡っているということも語られていましたーーーブッカーを受賞して世界的な小説家になられているという共通項以外に。

ちなみにイシグロさんというと、日本の主要メディアはつい日本人としてのつながりに目を向けがちなのですが、彼は5歳から一貫してイギリスで生活し、のちイギリスに帰化したために、国籍上もパーソナル・ヒストリーとしても反論の余地なくイギリス人なわけです。ここイギリスでも、彼の個人的・民族的な背景として日本との関連性やその(文学的)影響が語られることはあっても、だれも彼のことを日本人とは思っていません。トークにもありましたが、彼自身、英国の教育の恩恵を全面的に受けたと言っています。私もいち聴衆として壇上のこの作家を眺めましたが、たとえば表情の作り方とか姿勢や仕草、佇まいや雰囲気も含め、言語的(もちろん)だけでなく、非言語的な要素においても、彼はどこまでもイギリス人であり、こうして見ている限りでは日本人っぽさは皆無だということが伝わってきましたーーー強いて言うなら唯一、顔の造作でしょうか? やっぱりここで思うのは、民族・人種というよりも、その人自身がどんなふうに生きてきて、どういう考えや精神性を築き上げてきたのか、というほうに重きが置かれるここの価値観と、そうは言っても民族・人種によってウチとソトを分けがちなどこかの国の価値観との違いが、メディアの報じられかたにも如実に現れているように感じました。

以下、いくらかメモです。

イシグロ:
ぼくは記憶に興味があって。それを第一人称で語るナレーターがいるっていう。ぼくとしては30年前のできごとも、3日前のできごとも記憶の中で流れるように紡いでいきたいと思ってるよ。それはまあプルースト的ってことになるんだけど。

イシグロ:
ほかのアートのフォームにはよく嫉妬を感じてしまうよ。小説ではやりにくいことがあるからね。たとえば音楽なんかには。
現代アートも、なぜそれをするのかがそこまでロジカルに説明されなくていいっていうか、より直感的だという印象を個人的には受けるよね。ぼくのほうはそれを説明できなきゃならないんだけど。

イシグロ:
5歳でイングランドに来て、9歳くらいからだんだん本が読めるようになっていった。友人の家に行ったら、その家の書斎にたくさんのペーパーバックがあって。それに興味を持ったのを覚えてる。そこがぼくの本へのアクセスになったんだ。あの頃ぼくはまだ世界について何も知らなかったので、当時の読書はまだ理解が半分くらいの状態で。いまでもあの読み方を懐かしく思っているよ。もうそういう読み方ができないからね。いまでは本をジャッジできてしまうから。よくわからない世界の中で、どこか霧に包まれたような読書という体験を、ぼくはとても楽しんだ。自分の小説で読者を迷子にさせることはできないけれど、そういう感覚は読者の人にも分かってもらえたらいいなって思ってる。

イシグロ:
ぼくが興味のある本はノンフィクション。フランス人のお気に入りのノンフィクション作家がいて、彼女は「対立」の起きている世界のさまざまな場所を旅しながら書いているんだ。ルワンダだとか、アパルトヘイトの後の南アフリカ、人種的対立のあとのアメリカなんかを。これはぼくにとって大切な問いを立ててくれる。つまりそれは、社会や国家、ぼくたちは、この世界で起こったことをいつ忘れられるのか、あるいはいつまで覚えているのか、そういうことだよ。

イシグロさんのお話を聴きながら、私は「浮世の画家」を思い出していました。どこかの記事で読んだのですが、イシグロさんが記憶にかんするプルースト的アプローチを思いついたのは、彼がまだ駆け出しのライターで、体調を崩してベッドで数日ゴロゴロしていたときのことだと言われています。彼はまさに「そうだ、そうなんだ」という具合に、はっきりとその可能性に気がついて、なにかをすとんと理解した。ベッドの上で、どうもそういう瞬間があったらしいです。「なるほどな、そういうふうに書いていけばいいんだ」と。
「浮世の画家」を読むと、読者もこの記臆間のなめらかな移動というのを体験すると思います。いつの間にかそこに連れて行かれて何かをいっしょに目撃し、ふと気づけばもといた場所に立ち戻って、またつぎの何かを予感しているというような。
「日の名残り」はブッカー賞受賞もあって世界的に有名な小説ですが、その映画版(米英共同制作)もここではかなり評判がいいらしい。主演はアンソニー・ホプキンスとエマ・トンプソンのふたりです。これはまた今度見るのを楽しみに。

最後にサウスバンク・センター内、ロイヤル・フェスティバル・ホール周辺の雰囲気を記録します。

ロンドンにしてはめずらしく、1ヶ月以上も夏日が続いています。