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Photo: Nathan Dumlao

アメリカはよく弱者に厳しい社会と言われる。その象徴としてまっさきに挙げられるのが国民保険の不在なのだが、私は正直アメリカがなぜ国民保険をもたないのか、肌感として長いあいだ訳が分からなかった。

日本なら国民皆保険があって、私たちは医療費の一部を負担するだけで、医師に診察してもらったり、なんらかの治療を受けたり、必要な薬を手に入れることができたりする。これがイギリスなら、国民健康サービスと呼ばれる国民皆保険があって、公的な医療機関の医療費はすべて無料、タダである(しかしながら、無料だけに”死なない程度に”医療を施してくれるという冷や汗感はあり、中には高額な費用を自腹で払って一部の私的な医療機関へ行く人もいる)。そういう国としての制度がアメリカにはない。国民皆保険の必要性が繰り返し国家で議論されても、いまだに実現することのない国、アメリカ。医療費は自己負担ゆえに高額であり、医療費が払えず自己破産する人も多数存在する。極論を言ってしまえば、お金がなければ医者にかかれない、救急車も呼べない、そんな現実がある。一体なぜそんなことになるのか、そんな状態を国民の総意で望んでいること自体、私は長いあいだ分からないでいた。

さらに分からなかったのは、どちらかと言えば経済的に恵まれている人びとの中にも、経済的な困窮者を救うことに全力で抵抗する人は少なくない。たとえ大卒で有名企業で働き、順調に出世しているような人でも「自分の稼いだお金の一部(税金)が、国民皆保険に使われるなんて許せない」というホンネを平然と持っていたりする。掘り下げて聞いてみると「努力もせず怠けている人たちを、どうして汗水垂らして頑張ってきた自分が助ける必要があるのか?」という信念を持っている。日本でも「自己責任」のロジック(努力しないお前が悪い)を持つ人はいるものの、アメリカのこうした弱者への手厳しさは拍車をかけて強いのではないかと感じる。

この考えかたには、いろいろな反論があると思う。たとえば「同じように努力しても、報われる場合と報われない場合がある #運」とか「あなたの成功は、その資質や努力が時代に合っていたからであり、例えばもし狩猟採取時代に生まれていたら、成功の定義がまったく異なるので、あなたの持つ資質や努力にたいする恩恵が得られていたかは分からない #運」とか、「努力できるかできないかにも、遺伝子の影響がある #遺伝」とか「よい教育を受けられるかは、生まれついた家による #運 #境遇」とか)… 多分もっとも有名で骨太な反論はマイケル・サンデル教授によるものだろう。しかしどんな反論があったとしても、彼らには彼らの揺るがない信念があり、それによれば「自分は努力したおかげで成功しているのだから、努力していない人を助ける必要はない」ということになる。個人的にこの考えには反対するが、それはいったん脇に置いて、彼らがなぜそう信じるようになったのか、以前より少しだけ想像できる、ある程度の肌感を持つことができる、そんな機会が最近訪れた。

きっかけは、アメリカに留学している息子が直面する熾烈な受験競争だ。彼は現地の私立中学生で、まもなく高校受験を控えていているが、高校受験は中学のすべての成績(「成績評価」と「努力評価」両方から成る、いわゆる内申点みたいなもの)がきわめて重要だと言われている。進路相談専門の先生曰く、「競争率でトップ群の高校に進みたい場合、中学すべての成績でオールAを取っているのが前提です。そうでなければトップ群はまず受からないでしょう、というか実質的には見てもらえませんね」。しかしこのオールAというのは、よほどの秀才でなければ(勉強しなくてもデキる人でなければ)最初から最後まで勉強の手を抜くことなく惜しまず努力し、高いパフォーマンスを出し続ける必要がある。つまりアメリカのシステムでは、受験に一発逆転はなく、生徒には休むことなく高いレベルの「成果」と「努力」を継続することが求められるーーーだから試験で一発逆転が可能な日本の受験環境はずっと公平なのかもしれない。

とくにアメリカは、中国(人口14億人)や韓国(熾烈を極める受験大国)をはじめ世界中から「我こそは!」という若者が集まってくる天下一武道会のような国。アメリカの進学校には、それこそ国を代表するようなピカピカの留学生が混ざってくるし、留学生はほんの一部としても、日本の3倍の人口を持つアメリカ、中でもとくに教育熱心な家庭出身の子どもがここぞという進学校へ集められてガチンコ勝負になる。また、ハングリー精神のある中華系アメリカ人は突出したパフォーマンスで異彩を放つ傾向にある。たとえば息子の学校は、多くの生徒の民族的背景はアメリカ国籍の白人であるにも関わらず、学年末に成績優秀者として表彰される一部の生徒は、ほとんどが中華系アメリカ人という明らかな事実がある。また、高校受験には中学時代の成績がきわめて重要だが、それだけで結果が決まるわけではない。成績がよいのは当然として扱われ、そのほかに所属する学校のコミュニティにどれほど貢献できたかは常に問われてくる。アメリカはとくにここが鍵で、自分らしくどれだけコミュニティに貢献できたかによって、いわゆるリーダーシップのスキルや経験、資質も見られている。さらにパーソナリティも面接やエッセイなどで確実に審査されるし、スポーツや芸術でめざましい才能のある生徒は特別なボーナスがつく。さらに中学の先生数名からの推薦状も大事な要素となる(私立の進学校であれば、さまざまな高校とすでにネットワークを築いており、中学の先生が生徒を受験校へ推してくれると言っても過言ではない)。これらに加えて、標準化された共通テスト(SSAT)のスコアを求める学校もいまだに多く、受験生は共通テスト対策にも追われる。つまりこの競争に勝つには、よい成績を取り続け、努力し続けることができ、よい人柄・パーソナリティを持ち、学校コミュニティに自分らしさで貢献し、他者と良好な関係を築き、標準化テストでは高得点を取らなければならない。その上で、進路相談専門の先生によれば「もっとも重要なのは、生徒と学校との相性(フィット)」になる。

と、このあたりでやっと想像が追いついてくる。アメリカのいわゆるエリート層が10代の頃から進学校で手を緩めることなく継続してきた努力、苦労、成功、挫折について。そんな環境システムで、中学・高校・大学まで10年を送り、自分のたゆまぬ努力、成果、人柄、他者との関係性、コミュニティ貢献、リーダーシップ、スポーツや芸術での実績など、全方位フルスロットルで高水準のパフォーマンスを求められてきたエリート層こそ、むしろ努力しない(できない)人に自然と手厳しくなるのではないだろうか? よほど批判的な視点、クリティカル思考をもって自ら納得しない限り、ごく自然な帰結として、努力しない(できない)人に冷たくならざるを得ないシステムに彼らは晒されているのではないか? アメリカ国内、そして世界から移民や留学生として集まる優秀な人材が競い合う環境システムにいればいるほど、「俺は/私はここまで努力して結果を出している」「なぜそんな俺/私が努力しない(できない)人を救わなければならないのか」という観念が無意識のうちにも強化され、大人になったときにはすでに強固な信念となっているのかもしれない。そんな気がしている。