Photo: Vincent van Zalinge
軽井沢もすっかり観光シーズンに突入した。
週末の北陸新幹線は予約でいっぱいになり、駅前のひろびろした駐車場も満車の文字、旧軽井沢・アウトレット・星のや付近はものすごい人だかりで、スーパーに特設されたBBQコーナーの肉や魚介が飛ぶように売れていく……
そんなワイワイにぎやかな、商売繁盛、家内安全のこの季節。
朝起きて、携帯電話をのぞきこむと、こんなメールが届いていた。
子どもたちの小学校からの緊急連絡だ。
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本日5:50頃、学校から東へ200m付近にて
体長1mの熊の目撃情報がありました。
その後、熊は南の国道方面に向かい、
現在捜査中とのことです。
登校の際、車での送迎を行う、
熊よけ鈴を持たせるなど、
ご家庭でも
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いよいよか、と思った。
しかもこれは閑静な住宅地で、うちから歩いてわずか数分という距離だ。
わたしはこの目撃情報の提供者が、朝の5時50分頃、おそらくは住宅地での散歩中に、突如体長1mの熊に出遭ったときの衝撃や興奮について、またとっさの対応について想像した。
地図上で確認すると、出没場所には山から流れた沢があり、おそらく熊はこの沢づたいに山を降りてきたのではないかと思われる。熊はたぶん朝起きて水を飲みに沢へ行き、そのまま沢を下って町におりてきてしまったのだ。
わたしは軽井沢町役場のウェブサイトをのぞいた。
軽井沢町がツキノワグマの生息地であることは、住民のだれもが知るところであり、町は住民の安全を守るため、「さる・くまなびねっと」と呼ばれるサイトで、電波発信器のついた熊(やサルの群)の位置をリアルタイムで公開している。
サイトを開くとこのように、地図上にクマとサルのアイコンがぽつぽつと点在している(けっこういる)。アイコンがかわいらしい仕上がりなので、いまひとつ差し迫った危機感が伝わらないが、じっさい土地に暮らす者にはありがたい情報だ。
いっぽうここで、素朴な(あるいは残酷な)疑問がわいてくるかもしれない。
どうして町は熊を野放し、位置情報を公開するという手間暇かけた穏和な手段を選んでいるのだろう?
たとえば、なぜ彼らは熊を駆除(殺処分)しないのか? おそらく一部のアメリカ人が躊躇なくするように。あるいは一部のオーストラリア人が敷地に侵入してきたカンガルーにそうするように。
どうやら軽井沢は、クマと人との共存を目指しているのらしい。
じっさい町はクマの保護・管理について、クマ専門家集団「特定非営利活動法人ピッキオ」へ委託している。
このピッキオは、クマによる被害を減らし、ヒトとクマがお互いを許容して生きられる社会を目指し、クマにかんするさまざまな調査を行ったり、出没したクマの身体に電波発信器をとりつけたり、ベアドッグと呼ばれる特別な犬を米国の専門機関より三顧の礼で迎え、クマ追いを遂行したりしている(※熊関連の事業は一部で、そのほかネイチャーツアーや環境教育などの事業も行っているらしい)。
そう、クマとヒトとの共存。さらに広げれば、自然と人間との共存……
この共存フレーズは、すでに多数の国々で市民権を獲得したように思われたが、現在は米国の指導者のつぶやきに代表される、揺りもどしに似たにわかな動きも起こっている。身も蓋もない話であるが、いまのところ共存という考えかたは、旧来の枠組みや手段の内側でとらえる限り、お金も技術も相当かかる(あるいは許容的、統合的で、タフな精神力も必要になるかもしれない)。じっさい軽井沢のクマにたいするアプローチも、町のお金の潤沢さと(たとえば、別荘地から得られる固定資産税は莫大だ)、その理念を実現し得る実践的な技や術をもっているピッキオの存在と、あるいはこの町民の許容的で寛容な態度によって成り立っているのだろう。
🐻🐻🐻
そんなわけで、わたしは朝から子どもたちにクマよけの鈴を持たせ、それでもやはり出没場所と時間があまりに近いため、この日は彼らを車で送ることにしたのだった。
子どもたちを送り届け、家に向かってほそい路地をのろのろと走っていると、前からなにか見慣れぬ犬種をヒモにつないだ、あきらかに特殊な作業着を着た男性が歩いてくる。
ぴんと来たわたしは思わず車を脇へ止め、「すみません」と声をかけた。
それはやはりピッキオのバッヂをつけた隊員で、目つきのするどいその犬は、ベアドッグという日本で唯一のたいへん珍しい犬だった。
『犬を連れた奥さん』とはあまりにもかけ離れた、犬を連れたクマ追い。
はやる気持ちをおさえつつ、わたしはかねてから気になっていた質問をこの専門家へきいてみた。
「あの、もしもクマに出遭ったら、どのように行動すればいいのでしょう?」
すると隊員は、真剣な表情とじつに真摯な態度でもって、以下のことを丁寧に教えてくれた。
もしもあなたがクマに出遭ってしまったら……
1)大きな声や音を立てない
2)目をそらさない
3)目をあわせたまま、ゆっくりと後ずさりしながら逃げる
これがクマ専門家による非常時のシンプルな行動指針である。
1)については、クマ予防の段階ならば、鈴の音で人間の存在を相手に知らせ(ツキノワグマは臆病な性格)、クマをこちらに近づかせない方法をとるのだが、ひとたびクマに出遭ったら、クマを驚かすような音や声を立てることは絶対に避けなければならないという(クマは驚くと攻撃に転じるため)。また2)と3)にかんしても、こちらが目をそらしたり背中を見せたりすることは、クマの攻撃をさそうことになるのだということだ。とくにツキノワグマは顔ぜんたいが黒く見えるために、どこが目なのかよくわからないかもしれないが、「目のあたり」を見つめつづけるように注意してほしいという。
「なるほど… おかげさまでよくわかりました! ご親切にありがとうございます」
そうする間にも、ベアドッグは飼い主の横に立ったまま、遠くをみたり耳をぴんとたてたりして、けっして油断は許されぬという態度をたもち、たえずなにかを警戒しているようだった。
🐻🐻🐻
熊に遭う。
ばかばかしいかもしれないが、この言葉はなにか特別な響きと魔力をもっているので、熊と聞くとつい敏感になってしまう。それはきっと、熊に遭うということが、人生の思いがけない事態に出遭うことの象徴のように感じるため、またそのことをおそれながらも、じつはどこかで楽しみにしてなくもない心の機微をひそかに感じ、これにたいして再びおそれを感じるためだと思うのだ。
🐻🐻🐻🐻🐻🐻