「そういえば、しばらく前に買ってはみたけど、あのお鍋ってどうなったんだっけ?」
ずっと棚にしまったままの大きなお鍋。ホウロウ鍋とか、中華鍋とか、あるいは土鍋。捨てるに捨てられなかった、なかなか気軽に使えなかったしなもの。そのうち役に立つ日がくる。いつか自分も料理に目覚めるはずだ。だからしばらく、このままここに。そうこうするうち長い月日が経っていく……。
この手のしなに心当たりのある人って、けっこう沢山いるような気がしますけど、どうなんでしょう。
このウェブサイトもそんな具合でした。2年前に何となく設置され、以降ありがちな経過をたどってまったくの手付かず状態。長いこと眠り込まされてきました。まあ面倒というか、ちょっとしたことなんだけど、「ちょっとしたなりのオオゴト感」があった。忙しい、時間がない、ほかにやるべきことがある……やらない理由はいくらでも見つかります。もともと興味はあったはずなのに。結果的に何もせず、放置のままになっていました。
それにこの「ちょっとしたオオゴト感」。厄介です。どうもこの背後には、「やるからにはしっかりしなきゃ」という気構えが見え隠れしている。半端はやだなとか、続かなかったらダメだよなとか。他人から見たら、別にダメじゃないんですが。妙な綺麗好きというか、よくわからない義務感です。
それじゃどうして義務感なんかあるんだろう。誰にどんな義務が。そう考えてみると、さらにその後ろのほうに「(しっかりしなくちゃ)恥ずかしい」という恥じらいが潜んでいるのに気がつきます。恥じらいというか、変な自意識。なんだそれ、って感じですけど。むしろそっちのほうが気恥ずかしい。だって、誰もこっちのことなんて気にしちゃいない、誰もお前のことなんか見てないよって話です。近頃ますますみんな自分のことで忙しいので。
だったら別に、恥じらいなんてどうでもいいじゃないか。
考えれば考えるほど、そんなふうに思えてきました。まあいいや、たとえ他人にどう思われても。下手でも、見栄えがわるくても。迷惑なんてかけないのだし。とにかく自分は興味があって、好きにやっているのだからいいじゃんね、と。
それにたぶん、時代もあります。10も20も歳下の若者たちが、自分の「好き」とそれに伴う紆余曲折を、包み隠さず世界に向かって開いているのが当たり前な時代です。そんなふうに思う時点で(旧)世代を感じますが、どうも私の周り、同年代か少し上を見ていると、自身の苦労や失敗はじっと静かに耐え忍び、成果についてはわりにさらっと発表しがちに見えるのですが、どうなんでしょう。
なんかわからないですけど、もっと足取り軽く、開けっぴろげでもいいじゃないかと感じました。開けっぴろげって思うことがすでにもう古いんでしょうが。たぶんもうごく自然に繋がっちゃってる感覚があるのかもしれません。そのへんの感覚はぜひ若者を見習って。ちょっと試してみる。いろいろ試行錯誤してみる。そのプロセスも隠すことなく。恥じることなく。何気なく。
それでもし本当に合わないのなら、また別のことをすればいいんだし。すれ違った経験だって、またどこかへ繋がっていくわけだから。
というわけで。冬眠していたウェブサイトを揺り起こそうと思います。
これもどこかのキッチンにあるお鍋と思って躊躇せず。気になったこと、興味をもったこと、うれしいこと、かなしいこと、ぐつぐつ煮込んで。遅いけど。勝手にやれって話だけど。それにしても。
もうすっかり春ですねー。