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Photo: Cristian Newman

 

祖母が亡くなり、子どもが誕生日を迎えた。

お葬式に行ったとき、久しぶりに見た祖母の写真が、自分の思い描いた像とだいぶ違っていたことに、ちょっとした衝撃を受けた。
彼女はとても歳をとっていて、写真の奥で微笑んでいたのだが、その微笑みはまるで別人のようにも見えた。

わたしにとっての祖母のイメージがーーーつまり「おばあちゃん」と聞いたとき、脳内によみがえる克明な姿形がーーー自分がまだ高校生の頃に見た彼女のままで止まっていることに気がついて、愕然としてしまったのだ。

「高校生!」
それは、いまの年齢のたった半分でしかない。
たった半分しか彼女を覚えていなかったのだろうか。

そして思った。

「それじゃ残りの半分は?」

彼女の残りの半分を、ほとんど知ることはなかった。

実際半分どころではまったくなかったのだろうと思う。

たしかに高校生のあとも、たとえば上京するとき、結婚式、出産のタイミングなどで彼女に会う機会はあった。
大学に通うため上京する孫を、彼女はおそらく複雑な心境で見送り(彼女にとって、女子は近くの短大に行けばじゅうぶんだったから)、孫の結婚を心から祝い(女子の結婚が、この世代には文字通りすべてだったので)、また曽孫の誕生を聞き、子孫繁栄に安堵したのだろうと思う。

けれども決まってそんなとき、わたし自身は自分や子どもに手一杯で、彼女だけを見ているわけではなかった。

二親等でも、そんなありさまなのだ。

 

 

いま自分の横にいて、誕生日を迎えた子ども。

子どもにとっての祖父母というのは、わたしの両親だ。

両親はさいわいにして健康そのもの、まだまだ元気な様子に見える。

そう、まだまだ。まだまだ、大丈夫。

 

 

両親にとっての孫は、いつの間にか10代になっていた。

両親にとって、孫が高校生になるまでは、あと数年ーーー5年後に、まだあどけなさの残るこの孫も高校生になる。
つまり、わたしがまだ健やかで動的な祖母のイメージをありありと覚えている最長の歳に、あと5年から7年で達するかもしれないということだ。

 

 

あと何回、会えるのか?

健康そうな両親を見るたびに、ついこの質問を先送りにしてしまう。

それはとても重要なことなのに、ある恐れみずからが質問を向こうへ向こうへ遠ざける。

だってほら、まだこんなに。こんなに元気なのだから、きっと、このまま。

 

 

けれども計算はシンプルだ。

たとえば、ゴールデン・ウィークに里帰りしたとする。お盆に帰省したとする。それからあとはお正月(?)。

親が遠くにいればいるほど、1年で会えるのはせいぜいこの3回だろう。自分の仕事が忙しくないかぎりーーー旅行にでも行かないかぎりーーー子どもの部活が休みなら。そう考えると、3回だって結構むずかしいかもしれない。

ためしに親と1年で会える回数を設定し、かけ算してみればいい。残りの仮の年数と。
平均寿命はたしか男がなん歳で、女がいまはなん歳でーーー。

 

 

そしたらいったい、あと何回、会えるんだろうね。

 

 

Have a nice Golden Week!

Photo: Stephen Frank